エジプトVSメソポタミア起源論争
ガラスの起源には、メソポタミア起源説とエジプト起源説との2説があります。メソポタミア説とは、イギリスのエジプト学の大家フリンダース・ピートリー(1853-1942)が主張した説です。
同氏の書籍「王朝期の王墓」のなかでテーベ(古代エジプトに存在した古代都市の遺跡。ナイル川東岸、地中海から約800km南方に位置する)の墓より出土した9×5.5ミリメートル径の緑の小玉とハートル神の頭部像が、世界最古のガラスであり、その紀元は起源前3500年と発表しました。
この説に対して多くの学者達が「この時代に人工ガラスなど存在せず、これはガラスではなく石である」と異論を唱えました。
その後、エジプト古王国や中王国から古い墓からガラス玉が発見されたことにより、ガラスの起源は、メソポタミア起源ではなくエジプト起源説に大勢が傾いていきました。
果たしして、ピートリーが主張する世界最古のガラスは、本当に石だったのか?これについて、ドイツの分析学者が実験を実施した結果、石ではなく人工のガラスであることが判明。そして、このガラス玉はメソポタミアで作られたのではなく、エジプト製であるという意見が圧倒多数を占めていきました。これを機にガラスの起源は、エジプト起源説にほぼ結論づけられる、と学者のだれもが思っていました。
ところが第2世界大戦後、エジプト学やメソポタミア学は双方の学説を批判する対立構造ではなく、出土資料を再度徹底的に吟味する必要があるという風潮に変化していきました。
時を同じくして、エジプトのベニ・ハッサンの岩窟墓にて、紀元前3500年頃の壁画中に二人のガラス工が火をはさんで、ガラス吹きをしているかのようなリレーフが発見されました。エジプト起源説を決定づける世紀の発見かと騒がれたこのリレーフは、その後、ガラス職人の絵ではなく、金職人が金蔵を溶解するために壺の火を吹いていることが証明されました。一方、メソポタミア説は新たな発見を見いだせずにいました。
ところが新たな研究成果により、エジプト古代王国・中王国時代の出土ガラス資料は、出土状況の根拠に欠けるとして、ほとんどが否定され、ガラス起源説は振り出しに戻ってしまいます。例の物議をかもしたピートリーの緑の小玉も出土状況が根拠起源が不明と判断されてしまったほどです。
そして今日、科学的な方法により出土したガラスが資料対象となりました。振り出しにもどったガラス起源は、いったいどうなったのでしょうか?エジプト出土資料では王国第18世紀に(紀元前1552~前1306年)に遡るものはないとされています。
メソポタミヤ出土資料としては古代メソポタミアの都市テルアスマルで出土したガラス棒(アカラッド期 紀元前2340~前2150年)や古代メソポタミアの都市エリドウ出土の濃青色ガラス塊(ウル第三王朝の期 紀元前2140~前2030年)が報告されており、二転三転した現在ではメソポタミア起源説がガラスの起源として有利になっています。