ガラスはローマ時代に世界にひろがった
西ローマ帝国滅亡後、この頃の中世ヨーロッパは、異民族の侵入や紛争により混乱を極めました。暗黒の中世といわれ文化が停滞した時期ともいわれています。一方、中近東およびアジア諸国の文化は栄え、衰退したヨーロッパにとって、この東方文化は羨望の的になったのです。
そこに着眼したのがイタリアの小国であったヴェネチアでした。アドリア海に面したこの国は、ヨーロッパ諸国と地中海とを通じる貿易国として巨万の富と権力を得るほどの繁栄しました。やがて東方の優れたたガラス技術を導入し、自国での生産が可能となるまでに発展しました。このヴェネチアのガラス技術は「ヴェネチアガラス」を生み出すなど、その後のヨーロッパガラス工芸の基礎となり、やがて中世および近代ヨーロッパのガラス時代の幕開けに導きました。
ヴェネチアで作られたガラス製品は、ヨーロッパ諸国の王族や貴族から賞賛を浴びるとともに、ヴェネチア共和国の経済は豊かになりました。この卓越した技術を手に入れたいと考えた隣国はヴェネチアガラス職人の引き抜きをおこないました。一方ヴェネチアでは技術流出を防ぐために離島のムラーノ島にガラス職人を移住させて技術流失の防止をおこなったほどです。やがて、15世紀頃になると数多くのヴェネチアガラス職人が引き抜かれヨーロッパ各地に移住しました。こうして門外不出の高度なガラス技術はヨーロッパ全土に広がり、各地でファソン・ド・ヴェニス(ヴェネチア風)と呼ばれるヴェネチアン・グラスを模倣したガラス器が競うように生産されていきました。たとえば、チェコ西部はヴェネチアから優れた技術を導入し、ガラス工芸が発展し、透明度が高く、硬い良質の「ボヘミアンクリスタル」と呼ばれるガラスが誕生しました。同様にオーストリアの「スワロフスキークリスタル」や、ドイツの「マイセンクリスタル」、フランスの「バカラ」などなど、欧州全土に様々な特徴をもつ美しいガラス工芸が発展していくことにつながっていきました。
ヴェネチアガラスと比肩してヨーロッピアンガラスに大きな影響を与えたのは、チェコの伝統工芸でもあるボヘミアのガラスです。その歴史は古く、9世紀頃にスラブ系民族人によって築かれたモラヴィア帝国やその後のボヘミア帝国に受け継がれてきました。13世紀以降その製造技術は大聖堂ステンドグラスやガラス器などにも使用されるようになりました。14世紀にローマ帝国のカール四世皇帝がボヘミアの王となった頃、ヴェネチアとの国交が盛んとなりました。ここでヴェネチア・ガラスとボヘミア・ガラスとが深いつながりを結ぶこととなり、以降ボヘミアのガラス工芸は、ヴェネチアの発展に続いて興隆を極めていきます。
15世紀には約20窯であったガラス工房の数が、ヴェネチアのガラス産業が最盛期に入った16世紀には、ボヘミアでも90窯に達していることがわかります。この頃よりボヘミア・ガラスの特に美しい色ガラスが、教会の窓を飾るステンド・グラス芸術を開花させ、壮麗な建築物とそれを飾るステンドグラスの最盛期を迎えました。ボヘミア帝国1306年に滅亡しましたが、ボヘミアガラスの技術受け継がれ発達中部ヨーロッパにおいて、さらに発展したボヘミア王国では、装身具類に限らず丸窓ガラスや、ゴシック大聖堂のステンドグラスも作られるようになりました。壮麗な建築物とそれを飾るステンドグラスの最盛期を迎えました。
その後、時代の変遷に対応しながら、様々な芸術の要素を取り入れつつも、伝統的な手法を守り続けて、ボヘミアングラスは今日に至っています。1957年にプラハ城内の教会より発見された多数のガラス器は、16世紀のボヘミア・ガラスの実態をよく示していて興味深いものでした。それらの中でレース・ガラスやエナメル点彩法を使ったガラス杯には、明らかにヴェネチアの強い影響がうかがわれています。ボヘミアのガラス職人達は、ヴェネチアのデザインを模倣するだけでは満足せず、ヴェネチアの高度な技術を吸収し、その洗練されたデザインにボヘミア独自の装飾様式をとり込んだ芸術的独創的なガラス工芸を生み出していきました。やがてヴェネチア・ガラスが衰退すると、このボヘミア・スタイルがヨーロッパ様式として、周辺の国々のガラス絵の制作に、圧倒的な影響を及ぼしていくのです。オーストリアを代表する宝石のような輝きを持つクリスタルガラスのスワロフスキー社の創設者ダニエル・スワロフスキー(1862-1956)もボヘミアガラス工人の家系生まれたであることは有名な話です。